雑記の類

美女と野獣とFacebook空間のジレンマ

投稿日:2019年6月11日 更新日:

こんにちは、ロードショーで実写版 “美女と野獣” をチラ見してふと思った。

 

 

「これ、ただのキマリじゃん。」

 

 

ザナルカンドのテーマが聞こえてきた。

 

 



今日のテーマは、なぜ人はFacebookに何も投稿できなくなったかについて。

 

 

巷でよく言われるのが、

ポジティブでリア充な内容しか投稿されないため、ポジティブでリア充な事象が起きないと自分も投稿できない というもの。

 

これも間違いなくひとつの理由ではあるが、最近では、リア充な内容でさえもリア充アピ感が出てしまうことへの嫌悪感から投稿しづらいのが現実ではないだろうか。

 

 

私がたどり着いたひとつの結論はこれだ。

 

人々はFacebookという空間において 自分像を統一できない。

 

 

どういうことか。

 

人はだれしも自分像を複数持っており、意識的か無意識的かはそれぞれだが、接する相手によって自分の姿を変化させている。

これが、Facebook空間においては統一できないため、投稿しようにもどの自分像で語ればいいかがわからない

その原因は明白で、Facebookではコミュニティに関わらず全知り合いとフォローし合うことが余儀なくされてしまうことが原則、通例になっていることにある。

 



 

自分像についてもう少し詳しく説明する。

※正式なやつじゃなくて、いま僕が適当に考えた言葉です

 

自分像とは、相手にとって自分はこのような人間として映っているだろう、またこのような自分が期待されているだろう、という自分自身が想定する自分の姿のこと。

 

したがって、自分像は究極的には接しうる対象の相手の数と同数だけ存在することになる。

しかし、実際には自分像の形は相手によってある程度グルーピングされており、それは基本的には属するコミュニティと対応する。

 

属するコミュニティとは、たとえば

家族、配偶者/恋人、会社の同僚、会社の同期、大学の同期、高校の同期、中学の同期、ネット上の知り合い

のようなグルーピングで、各コミュニティ内では自分像、キャラクターが一定程度固定されていることが多い。

※上の例の中で固定されていない場合は、おそらくそれよりも切り口が細かいというだけ。家族の中でも親と兄弟で違うとか、同期の中でも特に一部のグループ内では違う など。

 



 

さて、Facebookでは、投稿をさらす対象となる相手のコミュティが完全カオス状態のために、投稿しようにもどの自分像で語ればいいのかわからなくなる

結果として、リスクを負うのが怖くなり、ほぼ投稿できない。または投稿できたとしても、全コミュニティに共通して語れるような超絶無難な投稿しかできないということになる。

 

一方で、Facebook以外のSNSでは意外と限定されていたりする。

 

mixi時代はのびのびと投稿できていたのは、だいたい自分像の近い2~3グループ程度が対象だったケースが多いと思う。

twitterではガンガン発言するひとは今でも結構いる。

会社内のSNSだけやたら投稿するひとも、そこそこみかける。

 

 

で、何が言いたいかっていうと、あんまり自分像に寄せていく生き方はよくないよねって話。

相手がこういう自分を期待しているだろうっていうのに左右されてると、永遠にその枠を超えられない。

Facebookってなんかむちゃくちゃ投稿しづらいよなぁっていうところから、結局自分像に踊らされてる自分に気づいた。

 

アドラー的にいえば、自分は自分をどうするかだけ考えるべきで、他人が自分をどう評価するかは他人の仕事だから考えるべきではない。

自分の仕事と他人の仕事を分離しろっていうやつだ。

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このあたりの考え方は非常に勉強になる。

 

以上。

 



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